世界の夢、夢の世界

夢の中で夢を見た。さらに夢の中の夢でまた夢を見た。
ある出来事が夢だったと認識できるのは、その夢から覚めた時である。つまり、いくら目の前の「この」世界が疑わしくともそれが夢であるかを確かめることは、「この」世界ではできない。
世界についてあらゆる可能性を考えることはできても確かめることはできない。
原理的には自分が80年の人生を送ったと思いきや、突然目が覚めてまだ10歳だったということもあり得る。ではその80年の人生と、目覚めた後の世界である10年はどちらが本当の世界なのだろうか。
どちらも本当の世界である。夢の中の人生は常に目覚めた後の人生に吸収されるのだから。
そして、10歳である少年は自分の「この」世界もまた夢の一部なのではないかという幻想にとらわれることになる……。


独我論とは、どんなに「私」を疑っても最後に残る<私>がいて、その<私>が世界の中心あるいは世界のすべてであると考えることである。
ここにおいて「私」をいくら相対化しても結局は<私>に吸収されてしまうあり方はどこか夢に似ている。
しかしながら夢と完全に異なる点は、「覚める」というような世界のあり方が転換したという感じを認識できないことである。
何度夢を見ても起きる前と起きた後の「私」は同一性を保つが、独我論において「私」と<私>が同一性を保つことはできない。
つまり転換可能な第一人称はすでに<私>ではないし、<私>が違う<私>になるということはあり得ない。<私>は絶対的であり不変である。もしこの前提が崩れてしまうならば、認識や世界そのものが崩れることを意味するように思われる。

『「神」という謎』

「神」という謎―宗教哲学入門 (SEKAISHISO SEMINAR)

「神」という謎―宗教哲学入門 (SEKAISHISO SEMINAR)

 宗教哲学の書籍は数多くあるが、なぜこのような入門書がほとんどないのか疑問である。
宗教哲学で神の存在論と言うと西洋的なアプローチ、つまりユダヤキリスト教を対象にしたものが多く、また神学的であることが多い。本書でもそういった傾向は見られるが、他の類書に見られるようなごまかしともとれる(有神論or無神論への)誘導がほぼない。
 なにより好感が持てるのは、あくまで素朴な疑問を出発点としているので、(神学的には当たり前な?)前提を無条件に受け入れずに著者がツッコんでくれるところである。宗教学や神学の本ではこうはいくまい。このへんが宗教哲学たるゆえんである。つまり、哲学的疑問というのは問うことでバチが当たりそうな疑問のことなのである。
 例えば自由意志をめぐる箇所で、聖書のヨブ記に著者がツッコミを入れているところなど、思わず「そうだよな」と納得してしまう。おそらくこの著者はサービス精神が旺盛というか、読者に対してかなり親切であるとみた。
 入門書なのでそれぞれのトピックがコンパクトに収まっているが、物足りないと思わせつつも知的好奇心を駆り立てる終わらせかたをしていて、さらに他の文献も読みたくなる。
 私としてはこういう(神をも恐れぬ)本が増えてくれることを願うばかりである。宗教哲学の名を冠していながら、全く哲学的ではない入門書が多すぎる。

些細な混乱

 あなたが「バイク」という言葉からイメージすることはなんだろうか。
私ならオートバイやモーターサイクルであるが、最近は自転車を意味することも多いらしい。
オートバイ関連の書籍を探しに本屋に行った際、バイクというタイトルの本を手にしてみたら自転車の本だったという確率がだんだん高くなってきた。
巷では自転車ブームなのだろうか。
確かにオートバイもバイシクルも「バイク」であると思うが、自転車の名称をあえてバイクと称する必要はあるのか疑問である。自転車乗りからすれば当然のことかもしれないが、バイク乗り(オートバイのほうね)からすれば戸惑ってしまうのである。しかもこの名称はここ何年かで普及しつつあるように思われる。
 なぜ自転車をあえてバイクと呼ぶようになったのか。
一つに、自転車を指すカッコイイ呼び方がなかったからではないかと考えられる。特にカタカナで呼ぶとすれば自然とバイクと呼ぶしかない。
ちょっと前までは「マウンテンバイク」や「ロードバイク」といった「○○バイク」という言い方でオートバイとの混乱を回避してたように思えるのだが、最近はオートバイ人気の低迷のせいか自転車業界が勢力を増して「バイク」という名称を奪還しようとしているように見えてしまう。それは言い過ぎか。
 しかしよく考えてみると、トライアスロンではスイム、バイク、ランという言い方をするし、スポーツジムで漕ぐトレーニング用の自転車もエアロバイクと呼ぶのである。ということは、徐々に「自転車=バイク」という図式が成り立ちうるのもうなずける。
 また、語源から言えば英語で「バイク(bike)」は第一に自転車を指すのだからオートバイのことをバイクと呼ぶほうが不自然であるとも言えよう。ここで厄介なのが「日本では」バイクといえばオートバイを指すことが多いという事情があったため、そういう使われ方をしてきた背景である。
 ここまで来るとどちらが正しいかという問題ではなく、どういう使われ方が大多数かということになる。もしかしたら、今は「バイク」という言葉の使用方法において過渡期なのかもしれない。

萌える男

萌える男 (ちくま新書)

萌える男 (ちくま新書)

 読後にこんなに嫌な気分になった本はいつぶりだろうか。とにかくイライラさせる本である。
 はじめに断っておくが、僕はオタクやアキバ系といわれる人々に対してそんなに悪い印象はない。単に「ああ、ゲームとかアニメが人一倍好きなんだな」という具合である。ゲームやアニメに限らずどの分野にもマニアと呼ばれる人々はいる。車だって温泉だって古本だって、異常とも言えるこだわりをみせて愛好する人間はいくらでもいるのである。
しかし、もしもこの著者がゲームやアニメを中心とする「オタク」の気持ちを代弁しているのだとしたら、そんな「オタク」どもは非常に不愉快である。そうでないことを祈りたいのだが。
 著者である本田氏によれば、現実世界は恋愛資本主義であり不平等だと言って執拗なまでに呪っているが、一体どうしちゃったのだろうか。そもそも本書の提唱するところの「萌える男」たちは現実世界の恋愛に興味がないのではなかったのか。だったら現実世界がたとえ恋愛資本主義であっても、二次元の世界で欲望を昇華する萌える男には関係のない話であるはずだが、そうはいかないらしい。
あくまで本田氏は現実世界を相手に戦いを挑んでいるみたいだ。なんで?

 まず「萌える男=優しい」、「萌える男=純愛」だの、「萌えない男=汚れている」という決めつけに辟易させられる。また、欲望の充足方法において、萌える男は安全かつ無害であって、萌えない男は鬼畜で犯罪者であるみたいな言い方は短絡思考以外の何ものでもない。それに現実世界では美男美女でなければ恋愛できないといって恋愛制度そのものを否定しているが、二次元の世界であるゲームやアニメにでてくる人物も美男美女ばかりじゃないかと思わずツッコミたくなる。
本田氏は一見、現実世界(三次元)とフィクション(二次元)を対立させているかのように見せかけて、現実世界の価値観を都合良くフィクションに織り交ぜている。僕が特にイライラさせられるのは、本田氏が萌える男を“過剰に”正当化することである。本田氏はニーチェを引用してルサンチマンを延々と語っているが、萌える男が現実世界を被害妄想的に意識するかぎり、彼らのルサンチマンはなくならない。それどころか、二次元を善とみなし現実世界を悪とみなす価値転倒によってルサンチマンを強化していることに気付かないのだろうか。
 萌える男たちが現実世界でモテないことを割り切ることこそ、恋愛資本主義に対しての有効な?姿勢だと思うのだが、彼らはやはり現実世界でもモテたいらしい。だったら無理な正当化なんてしないで「モテたい」ってはっきり言えばいいのに。
この本を読んでオタクやアキバ系と呼ばれる人々がなぜ怒らないのか不思議だ。本田氏と一緒にされたくない「萌える男」はたくさんいると思うのだが……。


とにかく本書はあまりにツッコミどころが多すぎて、読むのにえらく疲れた。それといちいち載せてる図表もいらないと思う。

ケニア人はなぜ足が速いのか

 マラソン大会にでたことはないけれど、よくジョギングをしている。最初はダイエットや健康目的だったが、体重が減ると目的もだんだんと変わってきて、今はどうしたら理想の体型に近づけるかに主眼をおいて走る日々である。

ケニア! 彼らはなぜ速いのか

ケニア! 彼らはなぜ速いのか

 陸上界では依然としてアフリカ勢が幅をきかせているが、『ケニア! 彼らはなぜ速いのか』はその理由を追求した内容となっている。
著者の姿勢が真っ直ぐに伝わってきてよい。また、専門的な解説になりすぎずに軽いフットワークで様々な陸上関係者にアプローチしているので、マラソンに関する知識がそんなになくても読み進めることができるのではないだろうか。
話はケニア人(特にカレンジン族)がなぜ足が速いのかを、遺伝的なものによるかどうかという議論から始まる。ところが、どうにもこうにも決定的な答えが見つからない。ケニア人の遺伝子を調べても、他の人種(例えばヨーロッパのマラソンランナー)と顕著な差がみられない。ということは環境かと言えば特に練習量が多いわけでもなく、練習方法の違いによってもうまく説明できない。読者はまるで、著者と一緒に速さの秘密を探す旅にでているような気分になる。最後には著者なりに結論らしきものを提示しているが、それは絶対的な答えではなく、スタートラインに立っただけに過ぎないとことわっているのが印象的である。
 本書で最も興味深かかったのはランニング中の水分補給に関するトピックである。マラソン業界ではランニング中の水分補給は積極的にすべき、というのが常識となっているが、本書に登場する研究者の一人は疑問を投げかける。それだけでなく、スポーツ科学において学術論文が認められるかどうかが、スポンサーなどが絡んだ経済的な要素によっても左右されるのではないかというひそかな可能性も見いだしている。
このことはスポーツ科学だけの話ではないように思われる。学問という分野全般においても市場の経済原理からは逃れられず、常に予算との闘いである。金になるかならないかという問題は、その研究結果に需要があるかないかとも言い換えられる。つまり、どんなに客観的なデータを駆使した理論でも市場に受け入れられなければ認められないのだ。




 余談だが麻生首相のランニングフォームがひどいと思うのは僕だけだろうか。完璧なフォームというのはありえないが、それにしてもひどすぎる。テレビで麻生首相のジョギング姿を見るたびに誰か指導する人はいないものだろうかと考えてしまう。
 

道徳ではくくれないもの

 朝日新聞の記事で毎週連載の悩み相談がある。読者の悩みを著名人が答えるというものだが、何気なく読んでいたら唖然としてしまった。
その内容は大雑把に言えば、家庭を持ついい大人である相談者が女子高生相手に不埒な思いを抱いてしまい困っている、というものだった。当然私には常識的な回答がくるだろうと予想された。が、回答はまったく逆だった。
回答者は、世間の道徳や倫理からすれば非難ごうごうのアドバイスをした。何もかも捨てて(世間から非難される)その方向に進んでみてはどうかという回答だった。
その文脈からすると、回答者は相談者に対して、決して積極的に悪を勧めているわけではなかった。そうではなく、悪だとは知りながらも抗いきれない濁流に呑み込まれる人間、というものを自身の人生を交えて語っているように見受けられた。そういう人生の先に見えるものもあると。
以上の回答者とは車谷長吉のことである。私は名前だけは知っていた程度のこの人物に興味を持ち、早速著書を読んだ。そこにはやはり、悩み相談で答えたような人間の黒々としたものが横たわっていた。

漂流物 (新潮文庫)

漂流物 (新潮文庫)




 図書館でなぜか無性に恋愛小説が読みたくなり、迷っていた時にふと小池真理子のコーナーが目に止まった。そして、『恋』というあまりにストレートな表題に、思わずその本を手にとってしまった。70年代が主な舞台なので学生運動が色濃く描かれているのかと思い少々ためらったが、バロック的だとも書いてあるが故に借りてみた。
物語は徐々に70年代という社会背景や現実世界から離れてゆく。人畜無害な恋愛とはほど遠い、退廃的、悦楽、甘美といった言葉が似合う官能の世界がそこにあった。人を想い、その人に絡め取られていく主人公の過程が見事に描かれていて、私は息を呑んだ。
主人公は恋をして、その結果罪を犯し、裁かれる。この物語は「殺人」や「裁判」、「浅間山荘事件」や「学生運動」を現実世界の象徴として表しているように思われる。その対岸には「恋」があり、男女の甘美な生活がある。
主人公の恋がいかに現実では理解されないものかを裁判は示している。裁判では被告人の心理状況を扱うことはあっても、あくまで一般常識というフィルターを通すことで評価を下すのだ。主人公が犯した殺人はむしろフィルターに絡みついてしまう心理によって引きおこされたわけだが、裁判ではフィルターを通過した無色透明な心理のみを判断材料にするため、どんどん真実からは遠ざかってゆく。
世間的な道徳や倫理などの価値判断で「恋」をとらえることは、恋の持つ本質を覆い隠してしまう。あえてその本質をえぐり出すのが文学の力である、と、こう言ってしまうと陳腐だが、今改めてこの恋愛小説を読んでよかったと深く思う。

恋 (新潮文庫)

恋 (新潮文庫)

 

だれが「○○」を殺すのか?

 若者の活字離れ、などと言うけれど一体昔の大人たちはそんなに本を読んでいたのだろうか。甚だ疑問である。インテリならつゆ知らずここで気になるのは、はたして「庶民」がどれほど本を読んでいたかということだ。
本が読まれなくなった原因として携帯電話にかかる時間と金がその他の消費を圧迫したという説明があるが、単純に考えればそうだろうなと思う。インターネットもケータイもなかった頃に比べると今の世の中は情報が洪水のようにあふれているし、その中で若者達は溺れないように注意しつつ、尚かつその流れにきちんと乗るように世間から要請されているのである。
パソコンもケータイもうまく使いこなせないと時代から排除されるというプレッシャーの中で、さらに本も読めという注文をつけるのは酷である。
 状況をもっとシンプルに考えてみよう。つまるところ、今の若者と大人たちでコストをかけるモノの優先順位が違うというだけのことなのだ。本を読まなくなったからパソコンやケータイにコストをかけるのではない。パソコンやケータイにコストをかけるから相対的に本を読む時間や買う金が減ったのだ。そしてそのことは「よいこと」でも「悪いこと」でもない。それなのに本を読まないことが悪のように語られる背景には読書好きによる恨み節にしか聞こえない。
私自身は本を読むことが好きである。活字中毒とも言えるかもしれない。だがそのことは私の趣味の一つであるに過ぎない。他人に強制したり周りにもっと本を読めと言う気もさらさらない。読みたい人だけが読めばいいのだ。強制される読書なんて苦痛以外のなにものでもなかろう。
 本を読ませようとする大人たちは「善意」で「正しいこと」だと思っているから余計に始末が悪い(こういった人は得てして教養主義的な御仁が多いように思われる)。なんだか酔っぱらいが無理矢理相手に酒を飲ませようとするのに似ている気がするのは私だけだろうか。読書を勧めること自体は悪いことだとは思わないが、だいたいにおいて勧め方が悪い。世の読書好きはなんでもっと謙虚になれないのだろうか。しかも断られると相手をバカにしたりする輩もいるし。こういう人たちを見ると、本ばかり読むとバカになるんだなと自分にきつく戒めるきっかけにもなるので複雑な気分である。
 そういった中で読んだのが『だれが「本」を殺すのか』とその続編である。

だれが「本」を殺すのか

だれが「本」を殺すのか

だれが「本」を殺すのか 延長戦

だれが「本」を殺すのか 延長戦

 出版業界のことは全然知らなかったので意外な業界事情を知ることができて非常に面白かった。
 本を殺した犯人は一人ではない。出版社や取次や書店もそうだが読者も含めた全員が犯人である。みんな共犯関係にあると言ってもよい。本が売れないのは特定の業種や層のせいではなく、全体としてそういう流れにもっていってるのだろう。だから私としては本が売れないことは騒ぐほどのことでもないと思う。ただ単に寂しいだけだ。寂しいけれどしょうがないとも思う。こんなことを言うとお前は本当の読書好きではないと言われそうだが、そう言われても別にいい。
 著書である佐野眞一も徹頭徹尾「本当の本好き」という幻想に囚われているようだ。それは著者の譲れないスタンスなのだろうが、私としてはいろんな本好きがいてもいいじゃないかと思ってしまうのである。もし本がこの世から無くなってしまったら、と考えるとそれはその時代において本の必要性と魅力が無くなってしまっただけのこと。しかし、いわゆる紙でできた本は無くなったとしても活字は媒体を変えて生き残ると思うので特に不安はない。これはレコードが無くなってCDが登場し、それも無くなってパソコンにデータ上の音楽が残るという現象と同じようなことだと思うのだが……。結局は当分のところ「文学」や「活字」は死なないし、死ぬのは紙としての本だけであって媒体の問題で大騒ぎしているだけなのだ。そしてなぜこんなに(出版・印刷業界だけが)大騒ぎするかというと、商売として食えなくなるからなんだろう。



 殺されるのは本だけではなかった。どうやら「音楽」も殺されるという物騒な状況のようである。

だれが「音楽」を殺すのか? (NT2X)

だれが「音楽」を殺すのか? (NT2X)

 この本を読むといかに出版業界がのんきであるかがわかる。音楽業界はもっと過酷な現実を強いられているのだ。それは音楽というメディアがパソコンの進化によって想像を絶するほどの変革を迫られている状況だということだ。
 話は戻って、今のところ本を紙以外で読む人は少数派である。私も長編小説をパソコンで読む気力も体力もない。これは紙でできた本に替わる活字媒体が未だに成熟していないということを意味する。そして紙でできた本の優れた特徴のひとつは携帯性にあるのではないだろうか。私はベッドに横になって本を読むことが多いし、風呂に入りながらも読む。そう考えるとモバイル型のパソコンや電子ブックなどは長時間の読書に到底耐えられるものではない。
 ところが、である。音楽は媒体がコロコロと変化する上に、技術が進歩すればするほど音質も上がり便利になっていくのだ。音楽は携帯性という点で本の何倍も早いスピードで進化している。ウォークマンが登場したことにより音楽がどこでも聞けるという点で文庫本の利便性に肩を並べた。iPodの登場により携帯できるデータ量は本を遙かに凌駕した。なによりも恐ろしい進化はパソコンをインターネットにつなげる環境にあれば、(ほとんど)劣化しない音楽データをいくらでもコピーできて誰もが取得できてしまうことである。その中には違法性が高いものも少なくはないが誰もそれを止めることはできない。本はなんだかんだ言って音楽に比べたら守られているのである。そのうち活字が電子データとして普及すれば、ファイル交換ソフトにより音楽業界の二の舞を演じることは確かだが、今のところずいぶんのんびりした進化しかしていない。それゆえ危機感もあまりないのだろう。
 音楽はコピーすることが前提となってしまったのが今の状況であり、音楽業界は出版業界以上に必死(のはず)である。またここには複雑な著作権の問題も絡んで事態は一層ややこしい。
 個人的にこの本を読んで一番考えさせられたのは以下の箇所である。(以下引用)


『結局のところ、CCCD問題も輸入権問題も音楽ファンにとっては切実な問題だが、あまり音楽に興味がない人にとってはどうでもいい話。』


極端な話、この一文だけで私は読んだ価値があったと思った。こういった発言をさらりと言ってしまう著者の勇気、というかそのクールな視点に拍手を送りたい。熱くなるだけではダメなのだ。この辺は佐野氏にも見習ってもらいたいものである。