道徳ではくくれないもの

 朝日新聞の記事で毎週連載の悩み相談がある。読者の悩みを著名人が答えるというものだが、何気なく読んでいたら唖然としてしまった。
その内容は大雑把に言えば、家庭を持ついい大人である相談者が女子高生相手に不埒な思いを抱いてしまい困っている、というものだった。当然私には常識的な回答がくるだろうと予想された。が、回答はまったく逆だった。
回答者は、世間の道徳や倫理からすれば非難ごうごうのアドバイスをした。何もかも捨てて(世間から非難される)その方向に進んでみてはどうかという回答だった。
その文脈からすると、回答者は相談者に対して、決して積極的に悪を勧めているわけではなかった。そうではなく、悪だとは知りながらも抗いきれない濁流に呑み込まれる人間、というものを自身の人生を交えて語っているように見受けられた。そういう人生の先に見えるものもあると。
以上の回答者とは車谷長吉のことである。私は名前だけは知っていた程度のこの人物に興味を持ち、早速著書を読んだ。そこにはやはり、悩み相談で答えたような人間の黒々としたものが横たわっていた。

漂流物 (新潮文庫)

漂流物 (新潮文庫)




 図書館でなぜか無性に恋愛小説が読みたくなり、迷っていた時にふと小池真理子のコーナーが目に止まった。そして、『恋』というあまりにストレートな表題に、思わずその本を手にとってしまった。70年代が主な舞台なので学生運動が色濃く描かれているのかと思い少々ためらったが、バロック的だとも書いてあるが故に借りてみた。
物語は徐々に70年代という社会背景や現実世界から離れてゆく。人畜無害な恋愛とはほど遠い、退廃的、悦楽、甘美といった言葉が似合う官能の世界がそこにあった。人を想い、その人に絡め取られていく主人公の過程が見事に描かれていて、私は息を呑んだ。
主人公は恋をして、その結果罪を犯し、裁かれる。この物語は「殺人」や「裁判」、「浅間山荘事件」や「学生運動」を現実世界の象徴として表しているように思われる。その対岸には「恋」があり、男女の甘美な生活がある。
主人公の恋がいかに現実では理解されないものかを裁判は示している。裁判では被告人の心理状況を扱うことはあっても、あくまで一般常識というフィルターを通すことで評価を下すのだ。主人公が犯した殺人はむしろフィルターに絡みついてしまう心理によって引きおこされたわけだが、裁判ではフィルターを通過した無色透明な心理のみを判断材料にするため、どんどん真実からは遠ざかってゆく。
世間的な道徳や倫理などの価値判断で「恋」をとらえることは、恋の持つ本質を覆い隠してしまう。あえてその本質をえぐり出すのが文学の力である、と、こう言ってしまうと陳腐だが、今改めてこの恋愛小説を読んでよかったと深く思う。

恋 (新潮文庫)

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