だれが「○○」を殺すのか?

 若者の活字離れ、などと言うけれど一体昔の大人たちはそんなに本を読んでいたのだろうか。甚だ疑問である。インテリならつゆ知らずここで気になるのは、はたして「庶民」がどれほど本を読んでいたかということだ。
本が読まれなくなった原因として携帯電話にかかる時間と金がその他の消費を圧迫したという説明があるが、単純に考えればそうだろうなと思う。インターネットもケータイもなかった頃に比べると今の世の中は情報が洪水のようにあふれているし、その中で若者達は溺れないように注意しつつ、尚かつその流れにきちんと乗るように世間から要請されているのである。
パソコンもケータイもうまく使いこなせないと時代から排除されるというプレッシャーの中で、さらに本も読めという注文をつけるのは酷である。
 状況をもっとシンプルに考えてみよう。つまるところ、今の若者と大人たちでコストをかけるモノの優先順位が違うというだけのことなのだ。本を読まなくなったからパソコンやケータイにコストをかけるのではない。パソコンやケータイにコストをかけるから相対的に本を読む時間や買う金が減ったのだ。そしてそのことは「よいこと」でも「悪いこと」でもない。それなのに本を読まないことが悪のように語られる背景には読書好きによる恨み節にしか聞こえない。
私自身は本を読むことが好きである。活字中毒とも言えるかもしれない。だがそのことは私の趣味の一つであるに過ぎない。他人に強制したり周りにもっと本を読めと言う気もさらさらない。読みたい人だけが読めばいいのだ。強制される読書なんて苦痛以外のなにものでもなかろう。
 本を読ませようとする大人たちは「善意」で「正しいこと」だと思っているから余計に始末が悪い(こういった人は得てして教養主義的な御仁が多いように思われる)。なんだか酔っぱらいが無理矢理相手に酒を飲ませようとするのに似ている気がするのは私だけだろうか。読書を勧めること自体は悪いことだとは思わないが、だいたいにおいて勧め方が悪い。世の読書好きはなんでもっと謙虚になれないのだろうか。しかも断られると相手をバカにしたりする輩もいるし。こういう人たちを見ると、本ばかり読むとバカになるんだなと自分にきつく戒めるきっかけにもなるので複雑な気分である。
 そういった中で読んだのが『だれが「本」を殺すのか』とその続編である。

だれが「本」を殺すのか

だれが「本」を殺すのか

だれが「本」を殺すのか 延長戦

だれが「本」を殺すのか 延長戦

 出版業界のことは全然知らなかったので意外な業界事情を知ることができて非常に面白かった。
 本を殺した犯人は一人ではない。出版社や取次や書店もそうだが読者も含めた全員が犯人である。みんな共犯関係にあると言ってもよい。本が売れないのは特定の業種や層のせいではなく、全体としてそういう流れにもっていってるのだろう。だから私としては本が売れないことは騒ぐほどのことでもないと思う。ただ単に寂しいだけだ。寂しいけれどしょうがないとも思う。こんなことを言うとお前は本当の読書好きではないと言われそうだが、そう言われても別にいい。
 著書である佐野眞一も徹頭徹尾「本当の本好き」という幻想に囚われているようだ。それは著者の譲れないスタンスなのだろうが、私としてはいろんな本好きがいてもいいじゃないかと思ってしまうのである。もし本がこの世から無くなってしまったら、と考えるとそれはその時代において本の必要性と魅力が無くなってしまっただけのこと。しかし、いわゆる紙でできた本は無くなったとしても活字は媒体を変えて生き残ると思うので特に不安はない。これはレコードが無くなってCDが登場し、それも無くなってパソコンにデータ上の音楽が残るという現象と同じようなことだと思うのだが……。結局は当分のところ「文学」や「活字」は死なないし、死ぬのは紙としての本だけであって媒体の問題で大騒ぎしているだけなのだ。そしてなぜこんなに(出版・印刷業界だけが)大騒ぎするかというと、商売として食えなくなるからなんだろう。



 殺されるのは本だけではなかった。どうやら「音楽」も殺されるという物騒な状況のようである。

だれが「音楽」を殺すのか? (NT2X)

だれが「音楽」を殺すのか? (NT2X)

 この本を読むといかに出版業界がのんきであるかがわかる。音楽業界はもっと過酷な現実を強いられているのだ。それは音楽というメディアがパソコンの進化によって想像を絶するほどの変革を迫られている状況だということだ。
 話は戻って、今のところ本を紙以外で読む人は少数派である。私も長編小説をパソコンで読む気力も体力もない。これは紙でできた本に替わる活字媒体が未だに成熟していないということを意味する。そして紙でできた本の優れた特徴のひとつは携帯性にあるのではないだろうか。私はベッドに横になって本を読むことが多いし、風呂に入りながらも読む。そう考えるとモバイル型のパソコンや電子ブックなどは長時間の読書に到底耐えられるものではない。
 ところが、である。音楽は媒体がコロコロと変化する上に、技術が進歩すればするほど音質も上がり便利になっていくのだ。音楽は携帯性という点で本の何倍も早いスピードで進化している。ウォークマンが登場したことにより音楽がどこでも聞けるという点で文庫本の利便性に肩を並べた。iPodの登場により携帯できるデータ量は本を遙かに凌駕した。なによりも恐ろしい進化はパソコンをインターネットにつなげる環境にあれば、(ほとんど)劣化しない音楽データをいくらでもコピーできて誰もが取得できてしまうことである。その中には違法性が高いものも少なくはないが誰もそれを止めることはできない。本はなんだかんだ言って音楽に比べたら守られているのである。そのうち活字が電子データとして普及すれば、ファイル交換ソフトにより音楽業界の二の舞を演じることは確かだが、今のところずいぶんのんびりした進化しかしていない。それゆえ危機感もあまりないのだろう。
 音楽はコピーすることが前提となってしまったのが今の状況であり、音楽業界は出版業界以上に必死(のはず)である。またここには複雑な著作権の問題も絡んで事態は一層ややこしい。
 個人的にこの本を読んで一番考えさせられたのは以下の箇所である。(以下引用)


『結局のところ、CCCD問題も輸入権問題も音楽ファンにとっては切実な問題だが、あまり音楽に興味がない人にとってはどうでもいい話。』


極端な話、この一文だけで私は読んだ価値があったと思った。こういった発言をさらりと言ってしまう著者の勇気、というかそのクールな視点に拍手を送りたい。熱くなるだけではダメなのだ。この辺は佐野氏にも見習ってもらいたいものである。