世界の夢、夢の世界

夢の中で夢を見た。さらに夢の中の夢でまた夢を見た。
ある出来事が夢だったと認識できるのは、その夢から覚めた時である。つまり、いくら目の前の「この」世界が疑わしくともそれが夢であるかを確かめることは、「この」世界ではできない。
世界についてあらゆる可能性を考えることはできても確かめることはできない。
原理的には自分が80年の人生を送ったと思いきや、突然目が覚めてまだ10歳だったということもあり得る。ではその80年の人生と、目覚めた後の世界である10年はどちらが本当の世界なのだろうか。
どちらも本当の世界である。夢の中の人生は常に目覚めた後の人生に吸収されるのだから。
そして、10歳である少年は自分の「この」世界もまた夢の一部なのではないかという幻想にとらわれることになる……。


独我論とは、どんなに「私」を疑っても最後に残る<私>がいて、その<私>が世界の中心あるいは世界のすべてであると考えることである。
ここにおいて「私」をいくら相対化しても結局は<私>に吸収されてしまうあり方はどこか夢に似ている。
しかしながら夢と完全に異なる点は、「覚める」というような世界のあり方が転換したという感じを認識できないことである。
何度夢を見ても起きる前と起きた後の「私」は同一性を保つが、独我論において「私」と<私>が同一性を保つことはできない。
つまり転換可能な第一人称はすでに<私>ではないし、<私>が違う<私>になるということはあり得ない。<私>は絶対的であり不変である。もしこの前提が崩れてしまうならば、認識や世界そのものが崩れることを意味するように思われる。