教えを説くということ

ブッダは悟りをひらいた後、すぐには周りに教えを広めようとしなかったそうである。というのもブッダ自身、しばらくは悟りの境地を独りで楽しんでいたというのだ。
僕はその時のブッダにすごく親しみをおぼえる。おそらくブッダは悟りの境地を独り占めしようとしたのではなく、他の誰かに伝える必要性を感じなかっただけのことなのだろう。僕が思うに当時のインド社会における人々には、どこかゆるやかな個人主義というものが生き方の中にあったのではないだろうか。このゆるやかな個人主義は近代西洋社会の個人主義とは異なったもので、個人の権利を全面に押し出すものではなく、共同体において個人が受ける義務をなるべく排除しようとする観点に立った個人主義である。つまり、個人が全体の中で自己を主張するのではなく、全体から自己を切り離して個人と社会との関係を断ち切ろうというものである。
仏教がとても原始的な形をしていた頃を伝える仏典には、「犀(サイ)の角のようにただ独り歩め」というブッダの言葉が記されている。これはその字義通り、修行するにせよただ独り歩めということである。ここにはのちの大乗仏教にみられるような菩提心はない。人々を悟りに向かわせようとか、救ってやろうという他者に対する働きかけがまるでないのだ。義務感に駆られて、己が信じる「正しさ」を強引に布教しようとするさまざまな宗教の信者には到底理解しえない境地である。