バリケードの中の青春

60〜70年代と言えば学生運動が火花を散らしていた時代である。その中を生きていた学生を表わしている日記といったら『二十歳の原点』だろう。

二十歳の原点 (新潮文庫)

二十歳の原点 (新潮文庫)

高野悦子はひたすら孤独に耐え続けて最期には自殺してしまう。
高校の時に学校の図書室で初めてこの本を読み、「なんだかかわいそうな人」というのがその時の彼女の印象だったが、大学に入ってから読み直した時はとても共感をおぼえた。
彼女が日記に綴っていることは青臭くて未熟なことばかりなのだが、それだけに青臭かった僕もまた胸を打たれたのである。
学生時代、僕のまわりには政治に関心がある人間など皆無で、学生運動なんていう発想すらない友達ばかりだった。そんな彼らがいざ就職活動の時期になると、あわてて新聞を読んだり政治経済をわかったフリをするのを見て僕は苦々しく思ったものだ。やはり青かった僕はそういう彼らを見てて世間とか一般市民の政治意識なんてこんな薄っぺらなものなのかという虚しさを感じたりしていた。
話を元にもどそう。
「『独りである』ことは、何ときびしいことなのだろうか。自殺でもしようかなと思った。そのまま眠ってしまうのが一番よかったのかもしれない。  でも、その解決を酒に求めた。」
彼女は酒を飲んでるうちはまだよかった。
「二十錠のんでも幻覚症状も何もおこらぬ。しいて言えば口と胃が重くなった程度。こんな睡眠薬ってあるだろうか。…雨が強く降り出した。どうしてこの睡眠薬はちっともきかないのだろう。アルコールのほうがよっぽどましだ。」
この日記の二日後、彼女は鉄道自殺をする。二十歳六ヶ月だった。

日記というものは残された者に対する叫びでもあり、復讐でもある。彼女は自殺をもって自らの存在を証明したように思う。
「青春を失うと人間は死ぬ。だらだらと惰性で生きていることはない。三十歳になったら自殺を考えてみよう。だが、あと十年生きたとて何になるのか。今の、何の激しさも、情熱ももっていない状態で生きたとてそれが何なのか。」
彼女は政治的な理由で死んだのではない。あの学生運動の真っ直中にいて孤独だったからこそ、彼女は自分が政治とは無縁の存在であることに気が付いたのだ。むしろ人生的な悩み、とりわけ「性」について悩んでいて、恋愛という幻想から脱却できずにいたために、男を求めながらも不器用な彼女は男性たちとうまくいかないのであった。その結果、まわりの人間を醜い者と感じ、また自分をも醜く感じてしまう。
「…彼らは動物的な肉体関係をもっているのに、そんなものとは遠く離れた世界の中に生きているふりをしている。その父と母から、性交によって生れてきた私。キリストのいう原罪。そして私自身も醜い。鈴木との肉体関係をのぞむし、くさいくそもすれば、小便もする。メンスのときは血だらけになる。」
自己嫌悪の行き着く先としての自殺のようだがそうではない。自殺寸前の彼女には誰かに対する嫌悪すらなかった。もはや何もないし、何も感じないのであった。
「何もないのだ。何も起らないのだ。独りである心強さも寂しさも感じないのだ。」
僕を含め、残された者たちがこの日記を読んで、あれこれ語るのはなんと虚しい愚かなことか。