プラトンは酒飲みの敵か?

プラトンの著作『法律』のなかで、理想国家を実現するためには「酒宴に関する法律」を制定する必要がある、という記述がある。
この法律は、「酒宴の席にある者が、期待にあふれて気が大きくなり、度を越して恥知らずになり、また、沈黙、会話、飲酒、音楽などの順序も、それを交互におこなうことも守ろうとしなくなくなるような場合、万事それと反対にふるまう気持ちを起こさせる法律」である。つまり、どの酒宴(飲み会)にも冷静でシラフの「指揮者」を配置し、この法律を守るようにし向けなければならないというものだ。
冗談じゃない、と酒飲みは言いたくなるだろう。まあ、ここでプラトンはたとえ話として節制を説きたかったわけだが酒飲みにはゾッとする話である。
この話を延長すると、社会の中で個人の快楽追求はどこまで許されるかという問題にブチ当たる。日本は世界の中でも有数の酒に寛大な社会だから酒飲みはいいとして、やはり気になるのはタバコにまつわる世間の運動である。
なぜ、日本ではこうも喫煙に不寛容な社会的傾向が幅を利かせるのか?その理由は動機の部分としてはアメリカをはじめとする、いわば政治的な国際的圧力。そしてそれを実行する手段としての「方便」でいえば、健康を害する医療問題。となるのだろう。
前者のアメリカ(および先進国)がそうだから我が国も、という動機の部分は僕にとってはどうでもよい。問題は後者のほうを楯にする禁煙運動である。
医療の面からの禁煙運動は主に二つの段階があると思う。まず、喫煙者によって他者(とくにタバコを吸わない人)の健康がおびやかされるので禁煙を唱えるというもの。つぎの段階というか、より過激な段階では、喫煙者がタバコを吸うと医療費の負担が大きい、さらにいえば体に悪いんだから吸うな、というものである。
嫌煙者(非喫煙者)が喫煙者によってうける煙害が問題だというのはまだ納得できるが、タバコは体に悪いからやめろというのは納得できない。嫌煙者は“喫煙者のためを思って”禁煙運動をしているのだろうが、甚だ迷惑な話である。喫煙者は自分が呼吸器系を中心とする疾患にかかる可能性が高い(ような)ことはわかっているはずだ。しかし喫煙者は端的に体に良いから・悪いからという観点でタバコを吸っているのだろうか。そうではない、吸いたいから吸っているのである。
今、世の中で行われている禁煙運動はつぎのような理屈と同じである。
目に負担がかかる読書方法は禁止すべきである、照度○○ルクス以下での暗闇での読書を禁止、○○時間以上の読書を禁止…。また音楽を鑑賞する際はそれがヘッドホンであっても○○デシベルを超えることを禁止する。体を傷つけるSM行為は絶対禁止…。
タバコは嗜好品である。嫌煙者はタバコを吸っても何もいいことはないと思うのだろう。しかし、ホントに何もいいことがないのにタバコを吸う人間がいるだろうか。タバコを吸ったときの精神面での満足感など、タバコの効用を嫌煙者はひたすら無視するのだ。