障害を個性と言えるのか?

 先日「スーパーテレビ」というドキュメント番組で自閉症の子供を取り上げていた。僕自身、知的障害者の現場に携わっているので身につまされる思いがした。
これから僕が言うことは過激で毒が含まれているが、その理由は「きれいごとを言いたくないから」ということに注意してほしい。さらに僕は知的障害についての知識は浅薄であり、また僕の言うことはもっぱら体験に基づいたものであることもあらかじめ断っておきたい。
以下の文章は多くの人が不快感を感じると思うので、イヤな予感がする人は読まないほうがよい。

知的障害者が概して「臭い、汚い、危険」の3Kであることは僕は事実だと思う。このことに関して言えば偏見でも無知でもなく、まぎれもなく事実であると思う。だって、社会における衛生観念や協調性、危機意識といったものが「健常者」(と言われる人)に比べて低い、もしくは無いのだから。健常者っていう言い方もひっかかるが、まあ便宜的な意味ということで。
行動から言えば、ヨダレは垂らすは糞尿は垂れ流すは、外に出れば見境もなく走り出し車が行き交う道路にも飛び込む。これって「社会的」に見れば、どう考えてもいわゆる標準から逸脱してることなんだよね。もう「常識的」に言ったら非常に迷惑な存在。それが知的障害者。半ば暴力的に言い切ったがもちろん重度と軽度では違う。
さらに厳しいことを言うと、知的障害者という存在で言いようのない負担を被るのはその家族である。(自分か子が)死ぬまで面倒を見なきゃならない、そもそも親が死んだら誰が面倒をみるのか?知的に限らず障害者の子供が産まれた時に手放しで喜ぶ親はそうそういないのが現実であって、ここらへんが世間というものを物語っているところ。僕は結婚もしていないし子供もいないから「親の心情」というものがよくわからないが、「お子さんには障害があります」って医者に言われてショックを受けない親がいるだろうか。子への素直な愛情とは別に、現実的な将来を考えたらそう楽観できるだろうか。
子供の行く末を考えれば考えるほど、悲観的になってしまう親がほとんどではないのだろうか。真面目で責任感の強い親は特にこう考えてしまうと思う。
障害児を持つ親と障害児に関わる者は己の価値観を問われ、価値観の変革を迫られる時が来る。その過程で障害というものを自分の中でどう受け止めるかを決定する。そしてこの価値観の変革期は一度や二度ではなく、自らの価値観を問う者に連続的で絶え間ない意志決定を常に要求するのである。
では、肉親以外の知的障害者を取り巻く環境はどうであろう。
以前、僕がものすごく嫌だったのが福祉施設における職員たちであった。とにかく明るく元気で積極的で活発で…。嘘臭い。押しつけがましい。一般人の冷めた視点から見れば、お前はアホかと。
彼ら(福祉関係者)の価値観は「ガンバレ!負けるな!強く生きろ!」というもので、実は知的障害者ひとりひとりの特徴など受け入れてはいないのである!「頑張らなくていい、勝たなくていい、弱くてもいい」という観点がまるでない。表面的には隠れているが、ここには障害者を矯正しようという世間とまったく同じ論理が働いている。福祉関係者と世間の人々は変わりがないんです。
実はここで、知的障害者だけでなくあらゆる社会的弱者をどうとらえるかというジレンマが含まれているのがわかるだろうか。
通常「弱者」といわれる者を差別(区別)無しに見るとすれば、自分たちと同等に扱うのであるから余計な配慮をしないどころか自分たちと同じような立ち振る舞い(能力と言ってもよい)を相手に望むのである。本当に平等であるならこういった要求は必然である。障害者(といわれる者)を「障害」者と認めてる時点で、周りはすでに差別ないしは区別していることに気付かない人々が世の中に多すぎる。小手先の差別論よりもその社会の鈍感さを問題にすべきではないだろうか?
世間でいう「いいひと」が(見た目には)福祉関係者によく見受けられる。だからこそ、周りは遠慮して素朴な疑問をぶつけられないのである。「なぜ彼ら(知的障害者)は臭いのか?汚い(汚く見える)のか?危険なのか?」という問いが封殺されている今の世の中では、健常者の理解なんて得られない。それらの問いを自然に発することができてこそ対話が可能であることを関係者はなぜ無視しているのか?
とは言っても、知的障害者を取り巻く環境そのものがマイノリティであってこういった発言自体、社会ではあまり問題にされない。そこに僕や福祉関係者が虚しさや葛藤を感じてしまうことは事実である。
社会が知的障害者を「認める」ことと「受け入れる」ことは全然違う。いくら障害が「認め」られても、その障害者の非社会性を理解されたことによって排除される可能性は高いのだから。
もし「受け入れ」られたのなら障害者が健常者とのつながりをある程度は持つことができる。このつながりも健常者本位のものであることは間違いないのだが…。

最後に僕が言いたいことは、なによりも「諦め」が肝心であるということである。それも積極的な諦めの境地で、むしろ障害者を肯定するほどの諦めである。障害者と散歩してて、向こうから来た小学生に変な目つきで見られたら「やっぱりそういう目で見るよな、こいつ(障害者)どう見てもオカシイしな」というような考え方ができたらもっと楽になれるのではないだろうか。
障害という概念はまことに相対的である。オカシイという概念も相対的に、かつ笑い飛ばせるぐらいに受け止められたらいいと思う。
健常者とは言っても、障害者より迷惑な人間なんてたくさんいるんだから。


知的障害者に心底慣れる」ことは危険である。慣れてしまったら「慣れていない」人々の気持ちを忘れてしまうだろう。また、その時彼は知的障害者が差別されてきたように「慣れていない」人々を差別しかえすことだろう。



最後まで読んで是非僕にたいして異論や反論(賛同も可)を唱えたいという方はコメントしていって下さい。
罵詈雑言待ってます。気軽に文句言って下さい。批判があって当たり前のようなことばかり言ってきたので。それとも僕の日記を読んでくれた人は「物言わぬ人」ばかりなのだろうか?