神の裁量権

キリスト教ユダヤ教に代表される一神教では、唯一の存在である神の絶対性が保証されなくてはならない。それゆえ、信者たちの神に対する信仰はその保証なしには成立しないところに宗教の本質があるといえる。
例えば無神論者とクリスチャンの間にはその世界観に大きな溝があるが、はたして両者は神をめぐって議論することすら不可能なのだろうか?この考察に入る前に僕自身の立場としてはいわゆる不可知論者(agnostic)に近いことを前もって言っておく。
僕が経験的にキリスト教徒と話していて思うことは、彼らは教義に対しあまり論理的批判をしないということである。小さなことにこだわらないとも言えるし、深く物事を(理論的に)考えていないとも言える。これは当然なことだと思う。なぜなら彼らはキリスト教に入信する際にその教義の理論的検証をしてから入ったわけではないのだから。また、理論的根拠があるから信仰するというのもどこかおかしい。
僕がキリスト教に関して最も疑問を抱いているのは「なぜ神は人間に不幸を与えたか?」という問題である。
全知全能なる神がミスを犯すことはありえず、その可能性すらないとしよう。この前提を飲み込んだとして、なぜ神(完全なるもの)が人間(不完全なるもの)を創造できたか?神はなにかを創造するとき設計ミスをするはずがない。そしてその被造物(人間)の過去から未来までの過程もすでに把握している。つまり、すべては予定通りで順調な世界構築をしているのである。
その神が人間に対して怒りや悲しみをおぼえることは論理的にはおかしいのではないだろうか?
ましてや人間たちに不幸と幸福を与える必要がどこにあったのか?この意味を考えるということは我々にとっての神の存在意義を考えることと同様の問題なのである。